今月6日に心不全のため死去 指揮者として国内外で活躍
小澤さんは1935年に旧満州、今の中国東北部で生まれました。
5歳の時に日本に帰国、小学生で初めてピアノに触れ、レッスンを始めます。その後、桐朋学園の音楽科に入学、数多くの指揮者を育てた齋藤秀雄さんから本格的に指揮を学びました。
23歳で単身、フランスに渡ると、現地で行われた指揮者のコンクールで優勝して飛躍の足がかりをつかみ、世界的な指揮者、カラヤンに師事しました。
またアメリカの指揮者、バーンスタインにも認められ、25歳でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任、その後もウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など世界的に有名な数々のオーケストラで指揮者として長年活躍しました。
このうち、アメリカのボストン交響楽団では1973年から29年間にわたって音楽監督を務めたほか、世界屈指の歌劇場として知られるオーストリアのウィーン国立歌劇場でも音楽監督を務めるなどその活躍によって「世界のオザワ」と評されました。
国内でも1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の創立に携わったほか、恩師の齋藤秀雄さんをしのんでサイトウ・キネン・オーケストラを結成して音楽祭を開くなど精力的に活動し、戦後日本のクラシック界をけん引してきました。
2008年には文化勲章を受章しています。
小澤さんは2010年に食道がんで手術を受けて以降、活動の再開と休止を繰り返していましたが、去年9月には長野県松本市で開かれたコンサートに姿を見せていました。
小澤さんは、今月6日都内の自宅で心不全のため亡くなったということです。88歳でした。
葬儀はすでに近親者のみで執り行い、後日、お別れの会を開くことを検討しているということです。
闘病で活動休止も そのたびに音楽の舞台に復帰
小澤征爾さんは2010年、74歳の時に食道がんの治療に専念するため、音楽監督を務めていたウィーン国立歌劇場での公演をはじめ、国内外の公演をキャンセルして活動を休止しました。
小澤さんは食道を摘出する手術を受けたということですが、同じ年の8月には復帰の会見を開き、若手の演奏家たちを前に力強く指揮をする姿を見せました。
その後も持病の腰痛や体力の低下などで活動を休止することがありましたが、そのたびに音楽の舞台に復帰してきました。
2018年、82歳の時には心臓の弁がうまく機能しない「大動脈弁狭さく症」で入院しましたが、同じ年に復帰すると再びオーケストラを指揮する姿を見せ、小学生に音楽の魅力を伝える催しなども開きました。
そして2022年、自身が総監督を務める「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の30周年特別記念公演を前に長野県松本市で、3年ぶりにオーケストラを指揮する姿を見せ、動画を公開しました。
この時が、公の場での小澤さんの最後の指揮となりました。
岸田首相「日本が誇るレジェンド」
岸田総理大臣は、旧ツイッターの「X」に「小澤征爾さんのご逝去に哀悼の誠をささげます。世界に志を持ち、国境を越えて大きな感動を巻き起こした偉大な指揮者であり、日本が誇るレジェンドでした」と投稿しました。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団「偉大な指揮者のひとり」
小澤征爾さんが死去したことを受けて、小澤さんが指揮者をつとめたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、追悼の声明を発表しました。
声明では、小澤征爾さんを「最も偉大な現代の指揮者のひとり」とたたえたうえで、「私たちは感謝と愛情を抱きながら、数々のコンサートやオペラなどでの公演、特に日本へのツアーを振り返っています」としています。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 日本語で追悼コメント
小澤征爾さんが指揮者をつとめたドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、SNSに投稿し、指揮をする小澤さんの写真と共に「ベルリン・フィルはかけがえのない友人であり、当楽団の名誉団員でもある小澤征爾に心からの哀悼の意を表します」と日本語で追悼のコメントを投稿しました。
指揮者 佐渡裕さん「ずっと背中追いかけてきた 感謝しかない」
小澤征爾さんに師事し、現在は小澤さんたちが設立した新日本フィルハーモニー交響楽団で、音楽監督を務めている指揮者の佐渡裕さんはNHKの電話取材に応じ、「小澤先生は子どものころから憧れていた1番の指揮者でした。いつかこんな日が来るとは思っていましたが、突然のことで大きなショックを受けています」と話しました。
ヨーロッパの指揮者が席けんしていたオーケストラの世界で、日本人の小澤さんが活躍できたことについて佐渡さんは「小澤先生の指揮はすごく正確で誰から見てもはっきりと見えます。精密機械のようなテクニックに加え、ものすごいパッションを持っていることが大きかったと思います」と小澤さんの技術と情熱を高く評価しました。
また、「日本人としてのバックグラウンドを持ちながら、音楽を共通語として世界で通用することを示したことが、僕ら日本人の後輩にとってものすごく励みになりました。日本だけでなく韓国や中国からも優秀な人が出てきている、そういう時代につながったと思います」と小澤さんの功績の大きさをたたえました。
そのうえで、「小澤先生の背中をずっと追いかけてきましたが、追いつかない存在でした。26歳のときにタングルウッド音楽祭のオーディションで選んでくれなかったら、僕は海外に出ていなかったかもしれません。ヨーロッパではうまくいく時もいかない時もありましたが、よく食事に誘ってもらいました。そんなとき音楽の話はほとんどしませんでしたが、『頑張れよ』と言われているように感じました。本当に感謝しかありません。ありがとうございました」と話していました。
詩人 谷川俊太郎さん「とても寂しい」
小澤征爾さんと交流があった詩人の谷川俊太郎さんは「小澤さんは、仕事をし始めた時期が重なり、同年代として親しみを持っていました。共通の知人を通じて何度か食事をともにし明るい人柄にひかれ、オーケストラは何度も聴きに行きました。同じ世代の芸術家が、次々といなくなりとても寂しいです」と話していました。
バイオリニスト 豊嶋泰嗣「魔法を持っていた」
デビュー当初から小澤征爾さんと何度も共演してきたバイオリニストの豊嶋泰嗣さんは、「ずっと闘病されていたのである程度覚悟していましたが、かなりショックはありますし、世界の宝でもあるので世界的に悲しい残念なことだと思います」と話していました。
去年の夏に会ったときのことについて、「小澤さんは手もほとんど動かない状態だったので、最初はゆっくりとした楽章だけやろうと思っていたけれど、演奏しているうちに小澤さんの手がだんだん上がってきたのに乗せられて3楽章も弾いてしまったのを今でも覚えています。純粋に音楽のことだけに打ち込む姿勢は昔からずっとそうだったと思いますし、われわれ演奏家も触発されて、一緒に音楽を作っていく喜びがすごくありました。一緒に演奏する時間は特別で、演奏者の能力を超えた部分まで引き出す魔法を持っていました」と振り返っていました。
そのうえで、「今では当たり前にみんな海外のオーケストラで演奏したり指揮したりしていますが、小澤さんは前例がないところをずっと歩んできていたパイオニアで、指揮者として小澤さんほど認められている人は世界を見渡しても一握りです。僕自身も、若い人を育てていく年齢になったので、小澤さんの遺志をついでいきたい」と話していました。
バイオリニスト 矢部達哉さん「努力欠かさない人」
およそ35年前から小澤征爾さんと共演を重ねてきたバイオリニストの矢部達哉さんはNHKの電話取材に対して、「小澤さんとともに共演できた時間は幸せな時間で、今は喪失感でいっぱいです。日本の音楽家にとって誰もが憧れる存在で、道なき道を切り開き、歩き続けていた存在でした」と話していました。
また、小澤さんとツアーでまわった際、前日が夜遅くても小澤さんが次の朝4時ごろから楽譜を開いて練習する姿を何度も見たということで、「何百回も指揮をしている曲であっても、努力を惜しまず、最後の最後までいい指揮者になるための努力を欠かさない人でした。指揮台で動き始める瞬間に生まれる吸引力や磁場は、どの指揮者と比べても次元がちがい、魔法のような指揮でした」と話していました。
よく訪れていた飲食店の店主「誰とでも仲よくなれる人」
小澤征爾さんは水戸芸術館の館長と、施設専属の水戸室内管弦楽団の総監督を務め、たびたび水戸市で演奏会に出演しました。
演奏会のあと、楽団のメンバーと一緒によく訪れていたという水戸市大町にある飲食店の店主、黒澤千里さんは「懐が深く、誰とでも仲よくなれる人でした。強いお酒が好きでした。オーケストラを聴きに行ったときは、メンバーが集中しているのがわかりましたが、店にいるときは小澤さんはメンバーを大切にしていて、皆でリラックスした様子でした。小澤さんが店に最後に訪れたのは8年ほど前で、少しやつれていたので心配していました。亡くなったと聞いてとても残念です」と話していました。
街では小澤さんの死去を悼む声「貴重な方を亡くした」
東京 新宿では、小澤征爾さんの死去を悼む声が聞かれました。
このうち、神奈川県の28歳の女性は、「世界的に有名で、日本の指揮者の中でも有名な方の1人だったと思うので、残念です。貴重な方を亡くしたと思います」と話していました。
都内の62歳の男性は、「ここまで海外で活躍した立派な方はいないので、すばらしい方が亡くなって残念です」と話していました。
また、都内の60歳の女性は、「かなりやせていたので心配していましたが、亡くなったと聞いてショックです。小澤さんが指揮する音楽は、はつらつとしていてメリハリがあり、好きでした。何枚かCDを持っていて、子どもが小さい時に子守歌で聞かせるなど、家族で親しんでいました」と話していました。
長野 松本市民「ショックすぎてことばにならない」
小澤さんは長野県松本市で夏に開かれる音楽祭「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の総監督を務めています。
松本市の50代の女性は、「ショックすぎてことばになりません。『音楽のまち松本』にしたのは、小澤征爾さんでした。世界中で愛された小澤さんの音楽がいつまでも残ってほしいです」と話していました。
また、60代の男性は、「松本市にとって身近な方だったので、ショックで驚きました。松本市を温かく見守りたくさん貢献してもらいました」と話していました。
音楽祭のボランティア「気さくで分け隔て無い」
小澤征爾さんが総監督を務める音楽祭で、数百人のボランティアをまとめてきた松本市の青山織人さんは、小澤さんについて「いつかは来ると思っていたが、失ったものは大きい。世界のオザワと言うけれど、気さくで分け隔て無く、ボランティアにも声をかけてくれていた。何十万人の子どもの音楽の世界にいい影響を与えてくれた。感謝しかないです」と話していました。